日記(2/6) 似ている
朝ごはん:しいて言えばせんべい
昼ごはん:駅前のとんかつ屋でロースかつ
晩ごはん:セブンのサバの塩焼き
とんかつを食べた.
大量に食べた.
ので,運動をしよう.
大量に食べて,大量に使う.すると体の性能が上がる(ある方向に).
大量消費社会のことが頭に浮かぶ.
大量に作って,大量に使い,捨てる(排泄する).
実際そうして社会もデカくなって(発展して)きたし,アナロジーを感じる.そして,そうやって作った身体は,筋トレしすぎると風邪引きやすいように,社会も壊れやすかったりするのだろうか?(この発想はむしろ俺が社会の不健全さを感じているところからきているが)
勉強も,大量に勉強して,そして忘れる.忘れた後に砂金が残るという.こっちのたとえで言うと,そういう真にカルチベートされた人間(太宰治)は,ロバストに思える.
太宰治の勉強の一文をこれまでちゃんと読んだことがなかったが,Web文庫で該当箇所を読めた.(https://dazai.or.jp/modules/novel/index.php?op=viewarticle&artid=115&page=7).
「
勉強というものは、いいものだ。代数や幾何の勉強が、学校を卒業してしまえば、もう何の役にも立たないものだと思っている人もあるようだが、大間違いだ。植物でも、動物でも、物理でも化学でも、時間のゆるす限り勉強して置かなければならん。日常の生活に直接役に立たないような勉強こそ、将来、君たちの人格を完成させるのだ。
貼り付け元 <https://dazai.or.jp/modules/novel/index.php?op=viewarticle&artid=115&page=7>
」
の部分は筋トレばっかするんじゃないぞ,とか,それこそ社会の発展のためにすぐ役立ちそうな研究ばかりやるんじゃないぞということつながると思う.俺は選択と集中はホントにクソだと思っている.
逆にたくさん食べて全然運動しないとぶくぶく太って病気になるが,一度覚えたことを全く忘れられない人って苦労したりするのかな?そうはならんと思うな.
一瞬のアナロジー,崩壊させてもよい.もともと完全に同じだとか言ってないから.
哲学では「似ている」と「似たようなところがある」というのは全く違うという解像度で言葉に向き合わなければならないと千葉雅也さんのツイッターで見た.
(と思ったが,もとはこれでhttps://twitter.com/masayachiba/status/1354011855753154560,また千葉さんの言っていた解像度で見るとこれも違うことになってしまう.笑)
ならば,「似ている」と,「完全に相似形をなす」は全く違う.
一個の違いで,「ほらね全然違うでしょ?」といっても,そんなことでは「似ているなと考えること」の意味は全く傷つかない.
(「全然違うじゃん」という気持ちが自分の中に生まれることも確かだが)
考える経路を見つけるのが良いんだ.そn道へドライブして,その道から,あるいはつながった別の道から帰ってこればよい.あるいは,違うところに行ったきりになってもよい.
じゃあ,俺はもう寝るから...✋